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明智光秀 出身は美濃明智荘と言われていますが、はっきりしたことはわかっていません。
足利義昭・織田信長に仕え、元亀二年(一五七一)、比叡山焼討ち時の功により滋賀郡を与えられ、坂本に城を築きました。 織田信長の信任が厚く、各地の合戦に従軍。丹波攻めでは主将を務め、平定後は丹波を拝領しますが、坂本は一貫して光秀の拠点でした。 天正十年(一五八二)に突如、織田信長を本能寺で討ち(本能寺の変)ますが、その後羽柴秀吉に山崎の合戦で敗れ、坂本城への敗走中に醍醐辺りで死去しました。 |
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豊臣秀吉 秀吉と坂本の関わりは、明智光秀滅亡後からになります。
本能寺の変の翌年、柴田勝家との賤ヶ岳の合戦の頃から、秀吉は頻繁に坂本に来るようになります。 京の東の玄関口から東国に睨みを聞かせていたのかもしれません。 |
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森可成 織田信長の重臣。信長の寵臣として有名な蘭丸の父。
信長上洛後、京の入り口、宇佐山城を守りました。 越前朝倉氏・江北浅井氏が進攻してくると、宇佐山城を出て、坂本辺りで合戦となり、討死しました。 坂本の聖聚来迎寺に墓があります。 |
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織田信長 信長は上洛後、近江を舞台に敵対する朝倉氏・浅井氏・六角氏らと戦っています。
特に坂本付近は、志賀の陣と呼ばれる対陣や、比叡焼討ちが行われており、もっとも苦戦した時期の主戦場だったのです。 また、信長は何度か上洛していますが、坂本経由で船路のルートを頻繁に利用しています。 |
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丹羽長秀 羽柴秀吉の「羽」は「丹羽」からとったと言われる、織田家の重臣。
本能寺の変の後、清須会議で、坂本を含む滋賀郡は丹羽長秀に与えられました。 この時、秀吉自らが坂本を手に入れなかったのは、天下を狙っているという風聞を避けるため、と秀吉が書状に残しています。 |
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杉原家次 秀吉の家臣。秀吉正室高台院の母親の兄にあたります。
賤ヶ岳の合戦後の天正11年(1583)8月、丹羽長秀に代わって、坂本城主となりますが、その年の12月には浅野長吉(長政)に代わっています。 当時、発狂したとの風聞が立っており、翌年に病死しました。 |
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浅野長政 秀吉の家臣。秀吉正室高台院の妹を娶る。後、五奉行の一人。
天正11年(1584)12月頃、杉原家次に代わり、坂本城に入りました。 坂本に楽市を定める等、施政に務めますが、天正14年(1587)頃、坂本城を廃し、大津城に移しました。 |